2006年7月アーカイブ

教員エッセイ:歌を歌ったこと

 なんとか大学にひっかかり上京した僕を、次なる苦悩が襲います。いかにして、女性と仲むつまじくなるか。いまだ理系の科類に所属していた僕は、きわめて合理的かつ科学的な根拠に基づいて、青き春に立ちはだかるこの巨壁を打開しようと試みます。男女比です。そうだ、合唱があるじゃないか。恋愛偏差値がちょっぴり底抜けにアレだった僕は、責任の所在を環境になすりつけ、見果てぬ世界を求めて旅に出たのです。
 
 が、当時も今と変わらずヘタレだった僕は、周りの若干名を道連れにしながら、"あらぐさ"という謎の音楽サークルに入ります。このサークル、なんでも、はるか昔は雑草と書いてフォークギターを抱えて歌会を開くような集団だったらしいんですが、93年の入団当時は、合唱・バンド・ミュージカルのすべてをやらされる(やれる、ではなく)という、少数の才気走った音楽マニアと多数ののんびりした音楽好きが妙なる調和をかもし出す混成集団と化しておりました。団員は当時、70人くらいはいたように記憶しとります。

 肝心のモテモテ計画の方はさっぱりでしたが、そこで僕は音楽(及びぷよぷよ通9連鎖縛り、及び四人でコタツ等を囲んでしばしば夜通し行われる確率統計学の実証的研究)に全人格的に没頭していく羽目になります。2、3年生で学生指揮者をさせてもらったこともあって(立候補とも言う)、特に歌にはハマリました。まず、時間割のすきまを使って学生会館のピアノ練習室を借りての音階練習、昼休みには構内の学生寮の屋上で後輩の発声練習の指導、放課後はやはり屋上から夕日に向かってコンコーネやイタリア古典をひたすら独習、といった按配。多分、勉強にかけた時間と、歌を歌っていた時間を比べると、歌の方がトリプルスコアくらいで多いと思います。

 その分のツケは、ただいま連日連夜、体で払わされています。痛いです。きしみます。とはいえ、いくつかの大事なことも、歌に没頭したこの日々から学びました。不肖の弟子に懇切丁寧に歌のレッスンを授けてくださった田村明寛先生(今も心より感謝しています)や、ささやかな自信が芽生えるたびに粉微塵に打ち砕いてくださった先輩方に教えて頂いたことは、もちろんたくさんあります。えー、もー、忘れませんよ、いろいろ。しかしながら、それにプラスして、歌の練習を通じて自分の体と対話することで、自分自身に教えてもらったこともたくさんあります。なぜか字数がなくなってきたので、希望される方にはナイショで教えて差し上げます。

 さて、このエッセイは「いい話」にするように・・・と風が僕に囁いていくので、かっこつけましょう。「 」。かっこつけました。こうして人はオヤジになっていくのですよ、若い人たちよ。大学時代は遊びや遊び、それから遊び等、とても忙しいですが、大人になるともっと忙しいんです。本気と書いてマジで。大学時代に「忙しい」と自分に言い訳してできなかったことは、少なくとも卒後40年はできないんで、よろしく(何を?)。あと、忙しいという字は心を亡くす、と書きます。いい話でしょう?借り物ですが。

 追記:僕と同姓同名で、たいへん有名なテノールの歌手の方がいらっしゃいます。月とすっぽん、どうぞ混同されないでくださいね。沼底のすっぽんの僕の方はバリトンですので。

服部 洋一

(2006/7/27掲載)

 A県の進学校中、ランキング三番目と評される高校で成績は中より下、中学、高校の国語の評定は3以上いったことがない私がこの文章を書いています。

 今は偉そうに「コンプレックスを持っていて苦労した人間の方が、心を病んだ人の気持ちはよく分かると思うよ」などと言いながら精神保健福祉学科で「精神保健福祉援助技術総論」を担当し、「おしゃべり」と「眠られる」ことにショックを受けながら、教員になって3ヶ月、今だに迷走した授業を行っています。

 33年間、精神保健福祉一筋で現場を駆け抜け、定年1年前に退職致しました。最後の肩書きはB県精神保健福祉センター精神保健福祉部長でした。辞める1ヶ月前は地域の人達の送別会に追われ、職場主催の送別会にもたくさんの人が参加して下さいました。いただいた蘭の鉢物などで、我が家は一時は花屋のようになりました。

 元の職場での私の仕事は、人に呼ばれると、「ごめんごめん、また、何かミスっちゃった?」から始まりました。1日にこの言葉を何回言ってきたかわかりません。しかし、多くの人達に支えられ仕事は大過なく出来てきたのかなと辞める時に実感しました。

 先日、義兄から「大器晩成型だったね」と言われ、甘くないこの社会でどうして今こうなっているのだろうかと、これを機会に少し自分のこれまでを振り返ってみたいと思います。

① 実力もないのに夢だけは大きかった
 私は、中学校時代に読んだシュバイッアーにあこがれ、「自分は僻地の医者になるのだ」と想い込み、4年間浪人をしました。落ちた大学は総計20校。浪人3年目までは、「自分は勉強していないから落ちたのだ」と正当化しながらパチンコや映画を見る予備校生活でしたが、さすがに4年目になると「自分は勉強することができない人間だ」とやっと気づきました。それほど「想い」が強い人間です。(自分を信じ続けてくれた両親への感謝の念は歳とともに強くなっています・・・)。

② 自分の知らなかった世界を知った衝撃があまりにも強かった
 日本社会事業大学3年次、担当ゼミの小松教授に精神病院を5カ所、見学に連れていって頂きました。そこで見た光景は自分にとっては余りにもショックで、「何でこのような生活をさせられている人たちがいるのか」「自分と同じ人間なのに何故」「ゆるせない」という想いを強烈に抱かされ、「自分はこの分野で生きていくぞ!」と決定づけられました。「人の痛みの状態を何とかしなければ」とその想いは今も変わっていません。(クリスチャンホームで育った影響が大かも・・・)。

③ すばらしい先生方との出会い
 日本のソーシャルワーク研究の第一人者である小松源助先生、日本の精神科リハビリテーションの第一人者である岡上和雄先生と大学時代に出会いがありました。今でも両先生には御指導を受け、恩師として尊敬し続けていますが、仕事を始めてからは、二人の先生が関係する多くの人達との出会いもあり、活動は全国的な拡がりとなりました。全国精神保健福祉相談員会会長を12年間、日本精神科救急学会評議員、日本社会事業大学評議員などなど、実力とはほど遠い人生を歩んでくることが出きました。(人に嫌われたくないというコミュニケーションの取り方と、根っからの野次馬根性がありどこでもよく出かけたからか・・・)。

 以上の3点で今の自分があると思いますが、大学時代は授業をアルバイトでよくサボり、居眠りもよくしていました(今はこれが何故か許せなく戸惑っている自分がいる)。今思うと、大学で学んだ授業の中身より、多くの人との出会いやサークル活動、特にセツルメント活動で社会の底辺で生活する子ども達と接したことなどが、今の自分のこの仕事に対する動機や社会へ立ち向かっていく姿勢を高める基盤になったと思っています。

 私の性格の特徴は、過去も現在もコンプレックスが根底にあるので、人とのコミュニケーションはいつも控え目になりますが、「想い」だけで生きてきたので言葉はやさしくてもきびしい視点を投げかけてしまいます。また、理屈より「自分がやる」と腰が軽く、抱えてはすぐパンクし、常に人の手助けを必要としてしまうということになります。それは、「人の痛みに」敏感で「ゆるせない」「なんとかできないか」という想いと、常に「支援を求める人から」学び、いつも「何かできることはないか」と捜し求める姿勢が強くあるからだと思っています。

 では、私は、どのような教員を目指すのか? 自分を振り返ると、1つは学生の精神保健福祉の仕事に向かう動機を高めること、2つ目は狭義の技術論を身につけただけの人ではなくPSWのハートと行動力を持つ人材を現場に送り出すにはどうしたらいいのかを常に模索し続ける教員でありたいと思っています。

天野 宗和

(2006/7/25掲載)

 これは私の知人Aさんの話である。

 Aさん(50代)は、夫と彼の両親の4人暮らし。義父は認知症を患っており、若い頃から外出好きだったこともあって、昼夜問わず、誰も知らないうちに1人で外に出ることが多く、道に迷うこともあった。Aさんは時々一緒に散歩するなど、義父の「外に出たい」という希望にできるだけこたえられる工夫をこらしていたが、それでも義父は、ふといなくなることが多く、「目が離せない」と感じていた。そこで大きな力になってくれたのが、近所の人々である。義父の状態をわかっている近所の人は、彼を見かけるとさりげなく話しかけ、「そうそう、ご家族が呼んでいましたよ」などと促しながら、義父を自宅に送り届けてくれたのである。

 その後義父は施設に入所したが、数年後のある日、Aさんは自宅前で途方にくれている高齢女性を見つけた。「どうしましたか?」とAさんが話しかけると、彼女は「自分の家への帰り方がわからない」と言う。Aさんは、玄関先に彼女をいれ、お茶を一緒に飲みながら、彼女が思い当たる連絡先を探した。しばらく話をしているうちに、彼女が家族の電話番号を思い出したので、Aさんはそこに連絡をして、無事に迎えに来てもらうことができた。Aさんは、その時の状況を思い出し、「うちのおじいちゃん(義父)のことがあったから、彼女の状況もなんとなくわかったし、小さなことだけどお手伝いできたのかもしれない」と語る。

 2006年現在、認知症患者の数は190万人近くと言われている1)。今後ますます患者数が増えることを考えると、上に挙げたような場面に遭遇することも多くなるだろう。平成17年度は「認知症を知る1年」とされ、「認知症になっても安心して暮らせる町づくり100人会議」や「認知症サポーター100万人キャラバン」など、全国的に様々な取り組みが行われ始めたほか、各地域における認知症患者とその家族を支えるための町づくりの例も紹介され始めている。今後はこういった取り組みの効果が徐々に検証されていくことだろう。

 私自身、身近に認知症の患者と接してきた経験を振り返ると、家族にとって認知症患者の介護に大変な苦労を伴うことが多い現状は否めない。しかし家族だけでなく、地域の人々もできる協力を行うことで、認知症になっても住み慣れた地域で暮らせる環境づくりに少しでも近づけはしないだろうか。もし身近に認知症の患者さんが今いなかったとしても、地域でできるだけ多くの人が認知症を知る、ということから始めるのも、「協力」の大きな第1歩であろう。この病気は誰がなっても不思議はないのだから。


1)永田久美子:認知症の人の地域包括ケア,日本看護協会出版会,2006.

山田 嘉子

(2006/7/20掲載)