2006年9月アーカイブ

教員エッセイ:学生はがんばっている

 私は、がんばっている学生を多く知っている。一日中、分刻みで忙しく駆けずり回っている。その内容は様々だし、目的も様々である。

 私は、学内で資格を取得したい学生のコーディネートを行っている。これは、学生が自主的に相談に訪れることから始まる。私は、そのやる気をサポートするだけである。もちろん、彼らは4年次には社会福祉士、精神保健福祉士の合格を目指している。私が行っているのは、それ以外の資格である。本大学の福祉環境学部とは、福祉だけではなくそれを取り巻く環境に関して学ぶところであると私は考えている。これだけできれば大丈夫、分かるという時代ではなくなっているから学生も大変である。学生は、福祉、情報、会計等の資格取得に自らの意思で取り組んでいる。混迷の時代であることを社会生活から学んでいる学生は意識が高いと感じられる。

 先日、いわき市のボランティア活動の打ち上げパーティーが行われた。そこに活動を行った学生と共に参加した。いわき市の職員やその活動のOBの方々といった、様々な職種や年齢の方が集まっていた。その中に特別養護老人ホームの施設長さんも訪れていた。学生に現場の話を聞かせて貰えるように施設長さんにお願いした。学生は一生懸命聞いている様子だった。後で、学生に聞いた感想を尋ねると意外な内容を聞いていたことが分かった。やりたい仕事や1つの仕事だけで人生は終わらないことを話して頂けたようだった。意外な収穫だった。学生に日頃から多くの視点で現実を見なければならないと教えていることに説得を増す話をして頂けたからだ。それを聞いて、学生はより多くのことにチャレンジしていこうと考えたようである。

 都市部では景気回復が叫ばれている。しかし、地方では実感はない。まだまだ学生にとっても大変な時代である。私は、学生にモラトリアム期間である大学生活の間にその視野をもっともっと広げ、アルバイト、ボランティア、遊び、勉強を数多く行い、将来の目標に向かって充実した学生生活をおくってもらいたいと考えている。

難波 利光

(2006/9/28掲載)

教員エッセイ:私のアイデンティティ(2)

 私がわたしであるのは何ゆえになのか。いつ頃からか、この不気味な観念が私に住みついている。しかも、世事に追われているときよりは、不思議と独りのときに現れる。何故にか、いつの間にか消える。いつ頃からか、私はこのひとときを楽しむようになった。

 観念(?)のひとつに、「私にとっての郷里の存在」がある。しかも、当分終わりそうもない気配である。郷里の代わりに友人や親族が入れ替わることがあるが、その中でも、郷里とのことが大半を占める。このように、私は郷里へのこだわりを抱き続けている、郷里ぬきでは私の存在はあり得ないのである。"ひとは人によって生かされている"とも言われるが、私は"郷里と人によって生かされている"とさえ思うようになった。故郷との結びつきを、石川啄木は「故郷のなまりなつかし 停車場のひとごみの中に そを聴きにゆく」と詠んだが、私の心境もそれに近いものがある。啄木のなまり(方言)に対し、私は郷里の自然や人々へのこだわりであるが、このこだわりを大切にしていこうと思う。

 閑話休題。9月中旬、道ばたの法面に咲く白い百合に初めて気づいた。浜通北部の私の田舎には見かけない種類のようだ。7月のやまゆりとは違った小ぶりの百合、どなたかその名前を教えて頂けないだろうか。


八巻 幹夫

(2006/9/21掲載)