教員エッセイの最近のブログ記事

教員エッセイ:二年後への想い

 昨日、厚生労働省は国勢調査のデータを基に5年ごとに公表している「完全生命表」を公にした。それによると、日本人の2005年の平均寿命は女性が85.52歳、男性が78.56歳と確定された。2000年に行われた前回の調査と比較し、女性は0.92歳、男性は0.84歳さらに延伸しているという。その背景には、公衆衛生の向上、医療技術の進歩、食生活の改善などがあげられる。

 また、平成18年版「高齢社会白書」を開くと、2005(平成17)年9月末現在、100歳以上の高齢者が全国で25000人を超え、毎年過去最高を更新し続けているという。さらに驚かされたことには、そのうち85%を女性が占めていることであり、改めて女性の生命力の強さに感服させられた。

 実は、私もまもなく98歳になる実母を抱え、妻と2人で老老介護に日々悪戦苦闘をしている。私は5人兄弟の末っ子であるが、父は50年前、当時49歳という若さで病に倒れ、母と私を含めた5人の子どもを残して他界した。それ以来、母は、ひたすら忍の一字で5人の子どもたちを女手ひとつで育てあげた。まさしく典型的な明治の女性である。以前は、兄たちと同居していたが、母の思い通りにはいかず、結婚したばかりの私たちの許へある日突然転がり込むような形で同居することとなり、以来35年間生活を共にしてきた。私たち夫婦には女の子どもが一人いるが、彼女は既に結婚しており、これから先も地元に戻る予定は無く、私たちと同居することは皆無に等しい。いまや高齢者3人の世帯となった。年々手数が掛かっていく母を私たち夫婦だけで面倒を見ていかなければならない状況になった。

 2年ほど前、母は軽い脳梗塞を起こし、記憶や見当識障害が出現、コミュニケーションすら難しい状況になったが、妻の懸命なリハビリと介護のお蔭で今は精神機能も以前の状態にまで回復している。

 しかし、当の本人はその間の記憶は今もって定かでなく、口だけはいつもの達者な状態に戻ったことから、日々の介護に当たる妻の精神的負荷は益々増大の一途をたどっている。尿失禁や便失禁の際には暫くかしこまっているが、数時間もするとその態度は遥か忘却の彼方である。自分の思い通りにならないと、ヘルパーやケアマネジャーが訪問してきた時など自分の味方が出来たとばかり妻に毒づき、他人の同情を買おうとする作戦を展開する小賢しさも健在である。足元が見られているにも拘らずにである。

 この毒舌がある限り、100歳までは生き続けるように思われる。後2年と少々、私たち夫婦にはそれ程遠い歳月ではないが、最近とみに身体機能の低下が著しい母にとっては100歳以上の高齢者25000人の中に入るのは一大事業であると思われる。

 福島県では100歳になった県民を対象に知事賀寿が行われる。その時が訪れたら兄弟らと一緒に母を囲んでお祝いをしたいと思っているが、母への「おめでとう」の言葉は、これまでひたすら母の介護に悪戦苦闘の日々を送ってきた妻へ贈る感謝と讃辞の言葉であって欲しいと願っている。

井上秀之

教員エッセイ:夜の駅前で思うこと

 夜十時過ぎにいわき駅前に降り立つことがある。その駅前ですぐに目にとまるのが、駅の真ん前にある、消費者金融会社の看板をいくつも掲げたのっぽビルである。駅前の交番のすぐ横にも、その斜め前にも、テレビコマーシャルでおなじみの社名の看板がかかったビルがある。いわゆるサラ金ビル、消費者金融の支店や自動契約機がテナントとして集中している雑居ビルである。特別の工夫がされているのか、これらの会社の看板は、暗い夜の駅前でもとりわけ目立つ。

 特急列車の発着する主要駅の真ん前といえば、地方都市でも「一等地」のはずである。その「一等地」に消費者金融の看板を掲げたビルがいくつもあるのはなぜだろうか。地域経済の低迷、郊外大型店舗の展開などにより、地方都市の「一等地」も不振を余儀なくされ、そこにある貸ビルはテナント集めに苦労していると聞く。このような地方都市の中心地区の「空洞化」の一部を埋め合わせてくれるのがサラ金やクレジットの消費者金融会社なのであろう。貸ビルの貸主にとって、これらの会社はビル賃貸料収入を確実に見込める優良な賃借人にちがいない。

 しかし、「一等地」であるはずの駅前で消費者金融会社が「繁盛」するということは、それだけサラ金やクレジットに頼る人々、頼らざるをえない人々がこの地域で暮らしているということでもあろう。市中銀行は無担保無保証での借入を認めないが、消費者金融会社は容易に貸し付けてくれる。地域住民には資金需要が生じたときに手軽に借入ができる金融機関は便利で有難い。とはいえ、借手の返済能力を超えて貸し付けるこの手軽さが問題なのである。しかも、無担保無保証であるだけに高金利である。様々な理由で資金需要が生じた借手は当初は適法なサラ金やクレジットから借り入れ、貸手側も手軽に貸し付ける。しかし、高金利の利息返済が滞ると借入金は雪だるま式に増えていく。やがて返済のために別のサラ金から借入を繰り返し、多重債務者となる。ついには違法なヤミ金融に手を出し、その暴力的な取り立てに怯える・・・。消費者金融の利用者は、現在、全国で1400万人、うち借入件数が5件以上の債務者が230万人いるといわれる。これら5件以上の債務者1人当たりの借入金合計は230万円とのこと。多重債務・ヤミ金融問題の当事者がサラ金・クレジットを利用したきっかけは、中高年では生活苦や経営難、若者では遊興費が多いとされているが、全体としては、低所得者が大部分を占める。そして、当初の借入理由がどうであれ、多重債務・ヤミ金融問題に直面するようになる経路はほぼ同じである。

 昨年12月、サラ金・クレジットの高金利に端を発するこれらの問題に対処するための法律「貸金業の規制に関する法律等の一部改正法」が国会で全会一致により成立した。3年の激変緩和措置があるものの、過剰貸付の禁止(総量規制)、グレーゾーン金利の廃止等が決まった。同時に、多重債務者対策としてのカウンセリング体制の充実、公的セーフティネットの拡充、金融経済教育の強化、ヤミ金融取締強化などの取り組みも始まった。多くの関係者からはまだまだ不十分ではあるが一歩前進と評価されている。駅前にこれだけ多くの消費者金融会社の看板があるからには、いわき市にも多重債務・ヤミ金融問題の当事者が相当数存在するにちがいない。今回の法改正により地域の公的セーフティネットやカウンセリング体制がどのように拡充されていくのか、地域福祉に関心を寄せる者として注視する必要があると思う。いわき駅に夜遅く着いた日、このことをとくに強く思った。


原田 康美

教員エッセイ:性的虐待が子どもに与える影響

 性的虐待は、子どもに長期的かつ深刻な影響を与えることは専門家以外の方でも容易に理解できるであろう。解離性同一障害(多重人格障害)で苦しむ人の多くが、子ども時代に性的虐待を受けていたと指摘する報告もある。性的虐待を受けた子どもたちが成人期に達して、境界性人格障害やうつ病、摂食障害に罹患することが少なくないとも言われている。また、薬物依存やアルコールの乱用、自殺、レイプなど再被害に遭う可能性が高いと言われている。

 性的虐待は、妊娠や性病などの危険性があるが、多くの場合は子ども自身の身体を直接傷つけるものではない。しかし、前述の影響の深刻さは、性的虐待が子ども自身のアイデンティティーを損なうものであることがわかる。

 なぜ性的虐待がこれほどまでに長期的な影響を子どもに与えるのであろうか。

 ある研究者は、身体的虐待の痛みの多くが一過性で接触も瞬間的であるのに対して、性的虐待は時間も長く、皮膚の接触や体臭など五感に及ぶ影響が及ぶためであると指摘している。また、絶対にあってはならないと思われている親子の性行為に被害者であったとしても加わったという自責の念や被害を受けた子ども自身に苦痛だけでなく性的な反応をしてしまうことがあることから自分自身を追い詰めるからと指摘する声もある。

 また、家族の関係性を指摘する研究者もいる。性的虐待は、母親が子どもの味方に付いてくれればよいが、娘が誘惑をして自分の夫を奪ったと母親が子どもを非難することで子どもを追い詰めてしまうというものである。

 いずれの説も否定できない性的虐待の深刻な一面を指摘しているが、筆者はこれに加えて思春期特有の影響があるのではないかとみている。

 虐待による影響は、一般的に虐待を受ける年齢が低く、虐待を受けた期間が長いほど影響が大きいと言われている。この説では、年齢が高くなるに従って虐待を受ける子どもが増加する性的虐待についての説明が困難になることから、前述のような説明が必要となってくる。

 思春期は、子どもが大人へと成長する転換期にあたり身体も心も大きく変化する時期である。発達の質的転換期は、乳児期から幼児期への転換期など子どもにとっては大きな階段を一段登るほどの質的な変化をもたらすが、それだからこそ養育環境など外部の影響を受けやすい時期でもある。

 思春期という精神的にも揺れ動きやすい時期に受ける虐待であるからこそ、子どもたちは親から受ける性的虐待に苦しみ続ける可能性があるまではないかと考えるが実証的研究はこれからである。

野津 牧

教員エッセイ:雑感「おままごと」

 皆さん、お元気ですか?巷では早くも花粉症を気にする季節(執筆日:2007.2.7)になりました。

 今となってはだいぶ前のことになりますが、お許しください。NHKのテレビ小説で「天花」というドラマが放映されていたのを覚えておられる方はいらっしゃいますか?確か、理想の保育を目指し、日々成長していく保育士を描いたドラマであったと記憶しております。ウルトラマンシリーズを期待???していた方はごめんなさい(前回ブログ2006.2.8掲載)。

 ある日の「天花」の放送で、最近保育園に通う子どもたちの「ままごと」のことが話題になっていた場面がありました。今のこどもたちの「ままごと」で人気のある役割は「赤ちゃん」だと言っていました。その理由は、「みんなにやってもらえて、自分では何もする必要がなく、楽だから」だそうです。逆に一番人気のないのは「お父さん」役だそうです。また、それに続くワースト2は、「お母さん」役です。その理由は「朝から晩まで働いて忙しくしており、疲れそうだから」だそうです。ドラマの天花先生や主任の珠江先生の時代は、「お母さん」役が人気だったそうです。私、矢野の時代もそうだったろうと思います。ちなみに、サザエさんのアニメのなかでのタラちゃんやリカちゃんたちが行う「ままごと」では夫婦(お父さんとお母さん)役の場面がほとんどであったような気がします。たまに、波平さんやマスオさんが子ども役をやっていましたね(笑)。皆さんの時代はいかがだったでしょうか?

 子どもたちって、大人のことをすごくよく見ているなぁとつくづく思います。前述の「ままごと」のエピソードも子どもたちが大人をよく見ているという証拠となるものでしょう。そういえば、わが娘が、保育園に通っている頃、私や妻が発した言動や態度を実にうまく真似ており、私たち夫婦がハッとさせられたことが何度となくありましたっけ。子どもたちからいろいろと教わることも少なくないことを認識させられました。

 いま子どもたちに関わる問題・事件や事故が多発しております。私たち大人は子どもたちをそれらのことから守らなければなりません。そのためには、私たち大人が日頃から子どもたちに「よい手本」を見せているのかを改めて問い直す機会が必要であると考えます。子どもたちに明るい未来を実感してもらえるように私たち大人が考えていかなければいけませんね。できることから確実にコツコツと...。

 ところで、子どもたちは、前述の「ままごと」のエピソードにあるような楽をしたいと思うほど、何をしてそんなに疲れているのでしょうかねぇ。このことについては、別な機会があれば、そのときにお話したいと思います。まあ、私は何かをするとすぐに疲れてしまいますが...(笑)。おっと、失礼!

 皆さん、くれぐれもお体に気をつけて、お過ごしくださいね。では、また。


矢野明宏

教員エッセイ:不思議な生き物 ~ 細胞性粘菌~

 世の中には不思議な一生(生活史)を送る生物がいる。しかも、それらの生物は往々にして生物学上の難題を解決する研究情報を提供してくれる場合がある。私が30年近く研究材料にしてきた「細胞性粘菌」もそのような生物のひとつである。

 子実体の胞子の発芽によって生じた粘菌アメーバは周囲の細菌を摂食し二分裂によって増殖し続ける(成長期)。周囲に細菌がなくなるとアメーバは増殖を停止し(中間期)、それまで独立して行動していたアメーバはその行動に劇的変化を示すようになり、培地上の諸点に集合して多細胞体様の集合体となる(集合期)。この集合体はやがてナメクジ状の形態(移動体)をとって培地上を移動する(移動体期)。移動体は暫く移動運動をした後、培地上に立ち上がり、最終的には頂端の胞子群と柄と基盤の三つの部分から成る子実体を形成する(子実体形成期)。普通の培養条件ではこの生活環に3~4日を要する。

 原生動物(アメーバ状で食作用)と菌類(胞子・細胞壁を持つ柄細胞)の特徴を併せ持っているため、生物の進化の過程で動物と植物との系統関係を研究する上でも重要な材料である。集合期→移動体期→子実体期と続く一連の細胞集団運動を研究することで、多細胞体の細胞分化・細胞選別過程・形態形成運動に個々の細胞の運動がどの様に関与しているかを探ることが出来る。特に単純な細胞集合体でしかない移動体が光や温度を鋭敏に感知したり、移動中に前部1/3は将来柄になる細胞集団に、後部2/3は将来胞子になる細胞集団にはっきりと分かれる(細胞分化・細胞選別・パターン形成)。

 私たちの体を構成する約60兆個の細胞も、体のどの部分を構成する細胞になるかを間違わずに分化・選別されてヒトのパターンが形成される。このメカニズムは未だに解明されていない。細胞性粘菌がこの単細胞から多細胞へと至るパターン形成の難問を解く鍵を握っている。


北見 正伸

 9月に、ある特別養護老人ホームのお祭りに参加させていただき、当日までの施設の皆さんのご苦労を思った。会場の設営、必要な機材やテントの借り入れ、地域の方々への案内、家族会の方が行うバザー商品の管理、多くのボランティアのコーディネート、そして利用者さんが参加でき、楽しめるプログラムを考え、演目を披露してくださる方や模擬店出店先の方との折衝等々。これらを日々の業務の間に行うのである。施設では、なぜこんな苦労をしながらも地域を巻き込んだ行事を計画しているのだろう。

 高齢者施設に限らず、様々な福祉施設では大きな行事以外でも普段からボランティアを受け入れている。それは、施設の皆さんがボランティアの「援助」を当てにしているからではない。看護や介護など専門的な知識・技能を必要とする「援助」は、専門性と責任にもとづいて、利用者さんの安全に配慮できる職員が行うべきものであるからだ。では、なぜボランティアが必要とされるのか。私は、利用者さんの社会参加の機会を作る、ということがその理由のひとつとしてあげられると思っている。

 学校が、所属している生徒や教師、父兄以外の人間にとって入りにくい場であるように、施設も一般のものが入りにくい閉じられた空間である。しかし、学校とは異なり、施設は利用者さんにとって生活の場、すなわち、地域そのものである。私たちは学校や職場や家庭以外の様々な場で当たり前のように過ごすことができるが、利用者さんにとっては生活の大半が施設に限られてしまう。だからこそ職員の皆さんは、高齢者施設であればそれまで利用者さんが生活していた地域とのつながりを保とうと努力し、障害者施設であれば利用者さん自身が自分の生まれ育った町に出かけたり町で生活ができるようにとがんばっている。それでも職員さんの努力だけではどうにもならないことも少なくない。地域から積極的に、施設と、そして利用者さんとつながろうとしていくことが必要なのだ。

 とは言え、施設には行きにくい、ボランティアと言っても何ができるのか、と悩む人も多いだろう。だからこそ施設側ががんばって開催している地域の方が参加できるお祭のような行事に注目してほしい。はじめから「ボランティアをしなくちゃ!」と意気込んでいくのではなく、近くの施設でお祭りをやっている、そんな案内を見かけたら、ぜひ出かけて行ってみてほしい。そして利用者さんの笑顔に接してほしい。そうすれば、実際に利用者さんとの交流がはじまるし、参加した行事を話のきっかけにすることもできるだろう。職員の方と話をする機会も作れるかもしれない。次の行事の企画をお手伝いする、などの新しいボランティアの発想も生まれてくるかもしれない。地域から積極的につながっていくには、行きやすい行事をきっかけにして出かけてみる、そんな簡単なことからはじめられるのではないだろうか。

(平成18年10月4日付 いわき民報 「地域経済ウォッチング」を一部改稿)


遠藤寿海

教員エッセイ:人工透析の合併症

 過去長い間整形外科医として総合病院に勤務し、時折透析患者の運動器合併症については片手間に取り組んできた。しかし透析医療は非常に特殊な内科分野の仕事として考えていたし、透析患者さんも時折しか訪れなかったので深く関わることはなかった。

 友人の内科透析専門医から、透析治療の合併症の一つである運動器(神経、骨・関節、筋、腱)障害を出来るだけ早く見つけ、これらの障害の影響をできるだけ少なくすることができないかとの依頼を受け、ここ数年透析治療の運動器合併症に取り組んでいる。

 1945.9オランダのコルフが世界で始めて人工腎臓の装置を開発した。その後医学や機器の進歩で急速な改善を見られてきている。しかし人間の腎臓は、24時間休み無く働いているわけでこの仕事を人工的器械で代償することは不可能である。それで透析専門医は、腎臓が機能しなくなったヒトに最適なことをするための努力を日夜注いでいる。

 年がら年中働いている腎臓になるべく近い機能を持つためには、腎臓の移植が相応しいが、日本の伝統的・文化的背景から臓器移植は進んでいない。従って人工腎臓に頼らざるを得ない状況であり、人工透析技術の向上は喫緊の課題と思われる。

 人工透析は腎臓の代わりに体液をきれいにして、老廃物や余分の水分を除き、電解質のバランスを保つようにすることである。1週間を単位にみると、正常の腎は168時間働いているが、人工腎臓では、大体週3回しか行われないので、1回の透析時間も4~5時間であるから週12~15時間で代用している。本来の腎の働きには到底及ばない。長期間の透析を受けると、色々な合併症つまり内科的には、脳血管障害、心不全とか人間の生死に、運動器では、関節のイタミや運動制限など毎日のQOL、ADLなどが深く関わってくる。

 運動器合併症は、長期間透析の末に蛋白の一種であるアミロイドが骨、関節、靭帯に沈着して障害を生じることである。これを出来るだけ少なくし、また合併症発生を予防することに取り組んでいるのが現況である。

 尿毒症となり、本来の腎機能が働くなった場合に透析導入となるが、透析導入の場合には患者さんの精神的葛藤ははかりしれないものがある。さらに維持透析になると、長時間透析が従来の透析に比して合併症発生の抑制に効果が証明されても、生活時間を長時間にわたって透析にしばられ、仕事に支障をきたし、経済的にも苦しくなる。会社によっては、週3回も休まれてはと難色を示す所もあり、透析施設側も従業員の勤務体制など経済的課題もあり、単に医学上だけでなく、社会的・経済的・心理的な問題の克服が必要となる。患者さんと医療側の十分なコミュニケーションが大切であり、できればケースワーカーの存在が必要となろう。


田畑 四郎

教員エッセイ:コンピュータは魔法の箱?

 コンピュータでワープロを使い始めて20年近くになる。そのころ卒業研究をしていたころで、最初は卒業論文を書くためにワープロの使い方を覚えて使い始めるようになった。今では欠かせないものになっている。本当の話か疑問だが、ワープロが使われ始めたころは、頭で考えた文章が自動でコンピュータに入力されると考えていた人もいたと聞いたことがある。多分、コンピュータは何でもできるだろう魔法の箱と考えられていたからだと思う。しかし、文字の入力が難しいことが分かるとそこからが大変であった。コンピュータを使えることが分かれば文字の入力を頼まれてしまう。ついつい引き受けてしまったりすると大変である。いくらコンピュータが使えてもボタン1つで入力が完成するわけでもなく結構大変な作業である。最近では、みんながワープロを使えるようになってきたので文字入力を頼まれることはないのだが、コンピュータがあればそれを管理しなければいけない。いずれにしても大変な作業になる。

 大学では情報処理の授業があって私も担当している。授業ではワープロの使い方、表計算の使い方、プレゼンテーションソフトの使い方などコンピュータソフトの使い方を中心に勉強している。これらはコンピュータ・リテラシーと言われていて、これはこれですごく大切なことである。しかし、よく考えてみると本来の情報処理とは?「何かの情報を目的に応じ処理して新しい情報を作り出すこと」これでいいのか?

 現在では、高校で情報の授業が必修化されている。以前のように、まったくコンピュータを使えない学生はほとんどいなくなり、文字入力はほとんど問題のないレベルになっている。ということはこれからが本当の情報処理の授業ということになる。コンピュータという魔法の箱が、自由自在とまではいかなくても、自分の意志で便利に動く道具として使えるようになれば、思考の助けとして、また、新たな表現方法としての手段を獲得することになる。しかし、教える側としては授業をどのように進めたらいいか?大変な作業は続きそうだ。


唐澤 朋久

教員エッセイ:「海峡を渡るバイオリン」を読んで

 最近、ある先生の勧めで「海峡を渡るバイオリン」という本を読んだ。この本は、朝鮮半島で生まれ、その後日本へ渡り、バイオリン製作者となった陳昌鉉という男性の半生を綴ったものである。

 独学でバイオリン製作者として大成するまでの日本での苦悩の日々を綴った部分も感銘を受けたが、朝鮮半島での生活ぶりも印象深かった。陳氏が幼少時代を過ごした当時は日本の占領下にあった時代であり、朝鮮半島で生まれ育った陳氏の目に映った日本という国と日本人についての記述が多くあったが、それをとても興味深く読むことができた。

 私は今まで、戦時中に日本が他国に対してしてきたことについて、日本人から話を聴いたり、日本のメディアを通して知ることはあったが、朝鮮の人がそれについて語っているものを目にするという機会には巡りあったことがなかったため、心に残るものが多くあり、新たな視点で日本と朝鮮の歴史を振り返ることができたような気がした。

 そして、日本と朝鮮のこれからの関係つくりの重要性を再認識した。当時の朝鮮は今では南北に分かれ、異なる国として成り立っている。特に北朝鮮の動向は現在では国際問題になっており、解決の糸口もなかなか見出せない状況にある。

 この本を読んで、日本と朝鮮の歴史のなかには多くの犠牲者が存在していることも再認識した。日本と朝鮮半島・・・これらに住む人々は使う言葉こそ異なるが、顔だちも肌の色も同じである。近くて遠い国にならないように、友好関係をしっかりと結んでいければよいと感じた。

 これはあくまで私が読んでみての感想ですので、興味がある方は是非ご一読をお勧めいたします。


今橋 みづほ

教員エッセイ:福祉法制と生活理解①:介護職について

 法学徒である私は平成17年度・平成18年度文部科学省科学研究費補助金を得て「介護専門職におけるパラリーガルとしての役割と業務に関する研究」というテーマの研究活動を続けている。そうすると、福祉現場においての介護職による法律家的思考の現況について、多岐に渉った関係性が確認できた。情報提供の依頼や代弁の要求、証人的役割といった期待も伺える。それらはもちろん、介護職による共感的な規範意識に裏付けされている。じっさい、介護職の法律家的思考により、事件・被害が食い止められたケースも実に多くあった。

 一方、その限界も、この研究の中で示唆されうる。これが、もうひとつの視点である。うっかりすると介護職は法の専門家ではないと過小に自称する。なぜなら、そういう法の教育を受けていないからだと言う。それなのに、日々「不法」の話題である。尊厳の否定・権利侵害・虐待・介護事故などについて、たびたび議論せざるを得ない。法なき不法論の応酬。ここに介護職による人権論のつらさを思う。利用者の不安の空気にやりきれなさを分かち合うのがやっとでは、共感的なケアの日々は苦しいに違いない。

 現在、介護職の離職率も指摘されている。そして、その「介護離れ」の原因は様々に語られている。しかし、どうだろう。介護の仕事は「汚い仕事だから」やめたのだろうか。「給料が安いから」職を辞したのだろうか。

 なんだか、それだけではないと思うのだ。『介護職であること』に「納得できないから」やめた人も、かなりいたのではないか。現に、『介護職』という概念から開放され、翌日から『ボランティア』として、その介護の手伝いを引き続き行なっている人に出会った。彼は、「介護職であることをやめて」ほっとしたと言っていた。「このほうが、いまはなんだか、しっくりくるので...」と話していた。現在、岐路に立たされている我が国の介護職たち。

 私はこれからの福祉法制に関する教育上の柱として『法律家的思考のプログラム』が必要ではないかと思っている。人々の生活の困難と可能性を理解しながらも、「法」なしでは難しい。「法」を知らずして「不法」を知ってしまう若き介護職のくやしさ。これは、もうすでに、少しずつ滲みはじめているのではないかと、想像するのである。

〔出典〕
梶原洋生、「介護職に求められる法律家的思考 」: think like a lawyer、日本介護福祉学会・学会通信No.28、2006年8月、一部修正


梶原洋生

教員エッセイ:教師を支える

 2005年度の調査では、小学生の暴力行為が2018件もあり、特に教師への児童の暴力が38.1%増の464件に上っています。対教師暴力に関しては3年連続の30%以上の増加ということでかなり深刻です。このような状況を鑑みれば、1990年代後半からクローズアップされるようになった「学級崩壊」も収まっているとはいえない状況にあります。この調査は各教育委員会を通じて実施されたので、各教委がどの程度学校の実態を正確に把握しているかによって結果がかなり異なってきます。実際にはもっと多くの暴力行為があったのではないかと思われます。

 また、文科省の調査によると2005年度「指導力不足」と認定を受けた教員は506人で2年続けて500人を超えました。「指導力不足」教員の認定は各都道府県教委などが独自に実施しているので一律の基準はありませんが、問題のある教師がいることは事実といえるでしょう。

 このような学校現場の状況に、多くの保護者や市民は教師に対し厳しい目を向けてきており、それが教員免許の更新制や給与の見直しなどに繋がってきているのではないかと思います。それは、多くの人が、現在学校で起きている学級崩壊や校内暴力、不登校、いじめ、学力低下などの問題をすべて教師の責任としている表れではないでしょうか。しかし、本当に教師だけの問題でしょうか。

 最近の小学校は、教師がゆっくり同僚と話ができないほど忙しくなっているそうです。週5日制の完全実施が始まった2002年頃から学校行事や教科の指導内容の精選などが行われましたが、それでも1日あたりの授業時間数は増え、高学年は6時間授業が当たり前になってきました。

 現在、教師の仕事は多岐に亘っています。例えば、①不登校やいじめ、校内暴力、学級崩壊などの問題から必要が叫ばれてきた心の教育、②ここ数年頻発している児童が被害者になる事件を受けての学校の安全対策や児童への安全教育、③国際学力調査(PISA2003)の結果やゆとり教育への批判から起こった学力低下問題への対応、④ADHDやLDなどの発達障害を中心とした特別支援教育への通常学級での対応など、どんどん増えています。さらに、今は児童だけでなく保護者への対応にもかなりの労力を割かなければならなくなってきました。

 理想的には、教師がこれらすべてに対処できることが望まれますが、現実的に可能でしょうか。これらは、すべて学級担任が担わなければならない仕事ではないと思います。私は、学校カウンセラーや学校ソーシャルワーカーなどの専門職、地域の住民、保護者など多くの人たちの力を結集し、連携して子どもたちを育んでいくことが必要だと考えます。

 多忙な中では、一人ひとりの児童と心を通わせた関係を築くことが難しくなります。教師が気持ちの余裕を持ってゆったりと児童と関わることで、細かいところまで気がつく丁寧な指導ができるのではないでしょうか。時間的にも精神的にもゆとりのない教師をみんなで支えていくことが、ひいては児童のためになるはずです。特に小学校は担任教師の影響力が大きく、教師が心身ともに安定しゆとりを持った状態で児童に向き合うことが必要ではないでしょうか。

伊尻 正一

教員エッセイ:腰痛と筋力

 私は福祉の専門教員ではないので、介護技術についての詳しい知識は持ち合わせていないが、身体的障害をもっている入所者が多い施設関係者の方々から腰痛問題の話を耳にすることがある。そして、そのときは「筋力の重要性」が強調される場合が多い。私自身も、筋骨たくましい立派な体格の男性が身体の不自由な入所者を「ヒョイッ!」と軽々しく持ちあげている姿を想像しながら、「介護の最大の武器は筋力かな?」と納得していた。

 ところが、最近、医学書院から刊行された『古武術介護入門』(岡田慎一郎著)を手にとって、それまでの「納得」がぐらついてしまった。なぜなら、そこには「筋力がなく、武術はもちろんスポーツ経験もない。しかも腰痛持ちの方こそ「古武術介護」を試みてはいかがでしょうか。筋力に頼らず、身体に負担をかけない動きをめざしますので、腰痛予防や身体機能の向上にもつながります」という言葉が載っていたからである。

 えっ? 筋力に頼らない介護? ほんとうにそんなことができるのだろうか? しかも、単に筋力に負担をかけないだけではなく、介護行為自身が腰痛予防や身体機能の向上にもつながるという。
つまり、岡田氏は、これまでの常識であった「身体介護→腰痛」からさらに一歩進めて「身体介護→腰痛予防」という図式まで持ち出しているわけである。こんな「非常識」な言葉を平然と口にする岡田氏はいったい何者だろう? そもそも、これまでの介護技術と古武術介護技術との相違点はどこにあるのだろうか?

 そういう疑問に対して、岡田氏は「既存の欧米的な介護技術が筋力を中心とした身体の動かし方であったのに対して、欧米の影響を受ける以前から日本に存在した古武術介護の動きは、既存の技術を質的に転換した効率よい動きである」と説明し、その「質的転換」とは「相手を自分の筋力を使って動かしてあげる」という視点から「もともと双方がもっているチカラを引き出す」という発想法への転換であるとしている。そして、「相手の動きにシンクロ(同調)することによりチカラを引きだすという原理」を提唱し、「揺らし」や「重心移動」などの宇宙的効果を強調している。

 たぶん、この場合の「チカラ」にも岡田氏自身のさまざまな思いが込められているのであろうが、専門外の私には十分には理解できない。しかし、直感的には、この古武術介護技術は、これまでの欧米的介護技術に「何か」をプラスする可能性を秘めているように思われる。ただし、それは「プラス」するものであって、これまでの基本的介護技術を否定するものではないことは岡田氏も再三述べている。しかし、事実として基本に忠実であるスタッフほど腰痛に悩まされる頻度が高いことも指摘している。要するに「たかが腰痛、されど腰痛」というところであろうか。

小松奈美子

教員エッセイ:学生はがんばっている

 私は、がんばっている学生を多く知っている。一日中、分刻みで忙しく駆けずり回っている。その内容は様々だし、目的も様々である。

 私は、学内で資格を取得したい学生のコーディネートを行っている。これは、学生が自主的に相談に訪れることから始まる。私は、そのやる気をサポートするだけである。もちろん、彼らは4年次には社会福祉士、精神保健福祉士の合格を目指している。私が行っているのは、それ以外の資格である。本大学の福祉環境学部とは、福祉だけではなくそれを取り巻く環境に関して学ぶところであると私は考えている。これだけできれば大丈夫、分かるという時代ではなくなっているから学生も大変である。学生は、福祉、情報、会計等の資格取得に自らの意思で取り組んでいる。混迷の時代であることを社会生活から学んでいる学生は意識が高いと感じられる。

 先日、いわき市のボランティア活動の打ち上げパーティーが行われた。そこに活動を行った学生と共に参加した。いわき市の職員やその活動のOBの方々といった、様々な職種や年齢の方が集まっていた。その中に特別養護老人ホームの施設長さんも訪れていた。学生に現場の話を聞かせて貰えるように施設長さんにお願いした。学生は一生懸命聞いている様子だった。後で、学生に聞いた感想を尋ねると意外な内容を聞いていたことが分かった。やりたい仕事や1つの仕事だけで人生は終わらないことを話して頂けたようだった。意外な収穫だった。学生に日頃から多くの視点で現実を見なければならないと教えていることに説得を増す話をして頂けたからだ。それを聞いて、学生はより多くのことにチャレンジしていこうと考えたようである。

 都市部では景気回復が叫ばれている。しかし、地方では実感はない。まだまだ学生にとっても大変な時代である。私は、学生にモラトリアム期間である大学生活の間にその視野をもっともっと広げ、アルバイト、ボランティア、遊び、勉強を数多く行い、将来の目標に向かって充実した学生生活をおくってもらいたいと考えている。

難波 利光

(2006/9/28掲載)

教員エッセイ:私のアイデンティティ(2)

 私がわたしであるのは何ゆえになのか。いつ頃からか、この不気味な観念が私に住みついている。しかも、世事に追われているときよりは、不思議と独りのときに現れる。何故にか、いつの間にか消える。いつ頃からか、私はこのひとときを楽しむようになった。

 観念(?)のひとつに、「私にとっての郷里の存在」がある。しかも、当分終わりそうもない気配である。郷里の代わりに友人や親族が入れ替わることがあるが、その中でも、郷里とのことが大半を占める。このように、私は郷里へのこだわりを抱き続けている、郷里ぬきでは私の存在はあり得ないのである。"ひとは人によって生かされている"とも言われるが、私は"郷里と人によって生かされている"とさえ思うようになった。故郷との結びつきを、石川啄木は「故郷のなまりなつかし 停車場のひとごみの中に そを聴きにゆく」と詠んだが、私の心境もそれに近いものがある。啄木のなまり(方言)に対し、私は郷里の自然や人々へのこだわりであるが、このこだわりを大切にしていこうと思う。

 閑話休題。9月中旬、道ばたの法面に咲く白い百合に初めて気づいた。浜通北部の私の田舎には見かけない種類のようだ。7月のやまゆりとは違った小ぶりの百合、どなたかその名前を教えて頂けないだろうか。


八巻 幹夫

(2006/9/21掲載)

 子どもが親(保護者)から良く愛されることの大切さは、いくら強調しても強調しすぎることはないと思います。

 1920年にインドで狼に育てられたといわれる二人の少女が発見されました。シング牧師夫妻にカマラ(推定8歳)とアマラ(推定1歳半、保護後1年ほどで死亡)と名づけられて育てられ、その後、いろいろなことがわかってきました。まず、親が狼だと、狼以上の人格を持つことができないということです。食事をする時も手を使わないで、狼と同じように口で直接食べ、急いで移動する時も、狼のように四つんばいになって移動します。さらに時間が経って徐々にわかってきたことは、ある一定の年齢を過ぎると言語の習得が難しくなるということ、それから人としての情緒性の成長が正常にできにくくなるということです。故に、望ましい人格形成のためにも、人が乳幼児期~児童期に親(保護者)から受ける愛情や養育がいかに大切かということが理解されます。

 また、我が国の脳型コンピュータ開発の第一人者、松本元博士の研究によると「愛するとは対象に対する自己の同化、関係寄せであり、愛する回路は愛される経験なしには獲得されない」とのことです。人は、乳幼児期はもちろんのこと成長過程において良く愛されないと、人を良く愛することができず、誰かから大事にされた経験がないと人を大事にすることができないというわけです。人は生まれたら、望ましい社会生活をなしていくためにも、やはり先ず良く愛されることが重要であると考えられます。


 更に「情動の科学的解明と教育等への応用に関する検討会」(座長・有馬朗人元文部大臣)の報告(2005)でも、「適切な情動の発達については、3歳くらいまでに母親をはじめとした家族からの愛情を受け、安定した情緒を育て、その上に発展させていくことが望ましいと思われる。」と述べられています。


 生まれたての人の赤ちゃんは衣食住等の生活上のことは何もできず、親(保護者)がいないと生きていけません。赤ちゃんは親(保護者)から良く愛され養育されることによって、心身共に活性化し、人として健やかに成長することができます。

 人の赤ちゃんが、他の動物よりも手がかかるようにできているのは、先ず人として良く愛され大事にされるために、わざとそう創られているのではないかと思うほどです。

赤司 秀明

(2006/8/10掲載)