八巻 幹夫の最近のブログ記事

教員エッセイ:私のアイデンティティ(2)

 私がわたしであるのは何ゆえになのか。いつ頃からか、この不気味な観念が私に住みついている。しかも、世事に追われているときよりは、不思議と独りのときに現れる。何故にか、いつの間にか消える。いつ頃からか、私はこのひとときを楽しむようになった。

 観念(?)のひとつに、「私にとっての郷里の存在」がある。しかも、当分終わりそうもない気配である。郷里の代わりに友人や親族が入れ替わることがあるが、その中でも、郷里とのことが大半を占める。このように、私は郷里へのこだわりを抱き続けている、郷里ぬきでは私の存在はあり得ないのである。"ひとは人によって生かされている"とも言われるが、私は"郷里と人によって生かされている"とさえ思うようになった。故郷との結びつきを、石川啄木は「故郷のなまりなつかし 停車場のひとごみの中に そを聴きにゆく」と詠んだが、私の心境もそれに近いものがある。啄木のなまり(方言)に対し、私は郷里の自然や人々へのこだわりであるが、このこだわりを大切にしていこうと思う。

 閑話休題。9月中旬、道ばたの法面に咲く白い百合に初めて気づいた。浜通北部の私の田舎には見かけない種類のようだ。7月のやまゆりとは違った小ぶりの百合、どなたかその名前を教えて頂けないだろうか。


八巻 幹夫

(2006/9/21掲載)

教員エッセイ:アイデンティティ(1)

 私は「精神科ソーシャルワーカー」として精神病院で働いてきました。当初は一般病院の医療ソーシャルワーカー(MSW)を志望したのですが、当時はそのような職種を採用する病院は少なかった。たまたま、希望実習(国家資格でないので、今のような実習カリキュラムはない)をした精神病院に欠員が生じることから、実習中に私という人間を少しは知った院長が採用するかとなりました。同期で病院ワーカーになるのが少なかった時代のこと、そこに就職することにした。MSWへの志望をあきらめきれず、同期の友人が総合病院で忙しく働くのを羨ましくみながら、"3年くらいはここに居なければな"と腰掛け気分であった。昭和40年代後半の精神科病院は、統合失調症の入院者で定床超過が一般的だったかと思う。入院者の生活や経済的相談がワーカー業務の大半を占めていたが、徐々に、病院の方針としてアルコール依存症の治療にも重点をおくようになり、それに応じてワーカーの業務も拡がっていった。昭和50年代の病棟の開放化や共同住居の試み等も一通り体験した。

 このような腰掛け気分の私が、いつのまにか精神科病院に居続けてしまった。その理由を私は次の様に捉えている。精神症状のひとつとされる妄想が生活にどのような影響を及ぼすのかへの関心。または患者と家族の関係性の解りづらさへの関心、そしてそういう人たちとの関わりから感じる「私が育てられている」という摩訶不思議さへの虜(とりこ)になってしまったのです。

 この職場からは多くの体験と貴重な知識をいただいた。そのひとつに、人間の「可能性の無限さ」をあげたい。ひとはその気になれば変えることができる変容への力を持っていると考えます。また、「ひとの問題はひととの交わりの中で解決される」ことも知った。これはひと一人の力の限界と他者との協働で生きていること、生かされていることを示すものではないだろうか。また、ソーシャルワーカーの仕事はその人の「生活に添う」ことが何よりも重要だといえます。しかし、様々な価値観と人生観によって形成された個人の生活に、異なる価値観を持つワーカーが添うことは容易ではありません。見守ることはつらさを伴うものでもあり、周囲の人々の支えで耐えられることも知りました。

 私にとって『援助(支援)することの意味』は永遠の課題なのです。

八巻 幹夫