天野 宗和の最近のブログ記事

 A県の進学校中、ランキング三番目と評される高校で成績は中より下、中学、高校の国語の評定は3以上いったことがない私がこの文章を書いています。

 今は偉そうに「コンプレックスを持っていて苦労した人間の方が、心を病んだ人の気持ちはよく分かると思うよ」などと言いながら精神保健福祉学科で「精神保健福祉援助技術総論」を担当し、「おしゃべり」と「眠られる」ことにショックを受けながら、教員になって3ヶ月、今だに迷走した授業を行っています。

 33年間、精神保健福祉一筋で現場を駆け抜け、定年1年前に退職致しました。最後の肩書きはB県精神保健福祉センター精神保健福祉部長でした。辞める1ヶ月前は地域の人達の送別会に追われ、職場主催の送別会にもたくさんの人が参加して下さいました。いただいた蘭の鉢物などで、我が家は一時は花屋のようになりました。

 元の職場での私の仕事は、人に呼ばれると、「ごめんごめん、また、何かミスっちゃった?」から始まりました。1日にこの言葉を何回言ってきたかわかりません。しかし、多くの人達に支えられ仕事は大過なく出来てきたのかなと辞める時に実感しました。

 先日、義兄から「大器晩成型だったね」と言われ、甘くないこの社会でどうして今こうなっているのだろうかと、これを機会に少し自分のこれまでを振り返ってみたいと思います。

① 実力もないのに夢だけは大きかった
 私は、中学校時代に読んだシュバイッアーにあこがれ、「自分は僻地の医者になるのだ」と想い込み、4年間浪人をしました。落ちた大学は総計20校。浪人3年目までは、「自分は勉強していないから落ちたのだ」と正当化しながらパチンコや映画を見る予備校生活でしたが、さすがに4年目になると「自分は勉強することができない人間だ」とやっと気づきました。それほど「想い」が強い人間です。(自分を信じ続けてくれた両親への感謝の念は歳とともに強くなっています・・・)。

② 自分の知らなかった世界を知った衝撃があまりにも強かった
 日本社会事業大学3年次、担当ゼミの小松教授に精神病院を5カ所、見学に連れていって頂きました。そこで見た光景は自分にとっては余りにもショックで、「何でこのような生活をさせられている人たちがいるのか」「自分と同じ人間なのに何故」「ゆるせない」という想いを強烈に抱かされ、「自分はこの分野で生きていくぞ!」と決定づけられました。「人の痛みの状態を何とかしなければ」とその想いは今も変わっていません。(クリスチャンホームで育った影響が大かも・・・)。

③ すばらしい先生方との出会い
 日本のソーシャルワーク研究の第一人者である小松源助先生、日本の精神科リハビリテーションの第一人者である岡上和雄先生と大学時代に出会いがありました。今でも両先生には御指導を受け、恩師として尊敬し続けていますが、仕事を始めてからは、二人の先生が関係する多くの人達との出会いもあり、活動は全国的な拡がりとなりました。全国精神保健福祉相談員会会長を12年間、日本精神科救急学会評議員、日本社会事業大学評議員などなど、実力とはほど遠い人生を歩んでくることが出きました。(人に嫌われたくないというコミュニケーションの取り方と、根っからの野次馬根性がありどこでもよく出かけたからか・・・)。

 以上の3点で今の自分があると思いますが、大学時代は授業をアルバイトでよくサボり、居眠りもよくしていました(今はこれが何故か許せなく戸惑っている自分がいる)。今思うと、大学で学んだ授業の中身より、多くの人との出会いやサークル活動、特にセツルメント活動で社会の底辺で生活する子ども達と接したことなどが、今の自分のこの仕事に対する動機や社会へ立ち向かっていく姿勢を高める基盤になったと思っています。

 私の性格の特徴は、過去も現在もコンプレックスが根底にあるので、人とのコミュニケーションはいつも控え目になりますが、「想い」だけで生きてきたので言葉はやさしくてもきびしい視点を投げかけてしまいます。また、理屈より「自分がやる」と腰が軽く、抱えてはすぐパンクし、常に人の手助けを必要としてしまうということになります。それは、「人の痛みに」敏感で「ゆるせない」「なんとかできないか」という想いと、常に「支援を求める人から」学び、いつも「何かできることはないか」と捜し求める姿勢が強くあるからだと思っています。

 では、私は、どのような教員を目指すのか? 自分を振り返ると、1つは学生の精神保健福祉の仕事に向かう動機を高めること、2つ目は狭義の技術論を身につけただけの人ではなくPSWのハートと行動力を持つ人材を現場に送り出すにはどうしたらいいのかを常に模索し続ける教員でありたいと思っています。

天野 宗和

(2006/7/25掲載)